寿司忠

今日の帰り道には、馴染みの寿司屋(寿司忠=スシチュウ)に寄った。毎週火曜日は定休日なのだが、経営者夫婦を我家に招待した関係上、寿司忠から我家までの道程を示す地図を届けに行ったのだ。従って、寿司屋に何かを食べに行ったのではなく、友人宅の玄関先で要件を済ませてすぐに帰る、という心積もりだった。
事実、訪れた時には寿司忠入口の暖簾は仕舞われており、非営業日なのは一目瞭然であった。しかし、店の中の電灯が燈っているのは見えたし、店の入口以外の所謂玄関も知らないので、予定通りの行動として扉を叩いてみた。すると、中からおかみが顔を出し、まあちょっと入りなさいよ、ということになった。そして、旦那は食事を済ませて数分前にパチンコに出かけてしまって留守だが、おかみはまだ食事中で、独りで寂しいところだったので、よかったら一緒に食べてお行きなさい、ということにまでなった。師走の夜道で自転車に乗った後の体には、店内の暖かさが際立って感じられ、目前には寿司屋の美味しそうな惣菜(見かけ通りに美味しい)が並び、入って1分と経たないうちに生ビールのジョッキまで差し出されながらの誘いでは、断ることのできる筈もなく、辛うじて小声で発した遠慮の言葉の半分はビールと一緒に飲み込んでしまう勢いで、さっさと座り込んでしまった。店を訪ねた理由である地図は初めに渡したので、用事はとっくに済んだ筈だが、家に帰ったところでどうせ誰もいないのだし、独りで食事を拵えて食べるのも面倒だ、と思うと腰も重たくなる。暫くすると店の娘2人が相次いで帰宅し、最後には旦那もパチンコから帰って来て、一家四人の団欒の食卓にオヤヂがお邪魔をしているような格好になった。

しかし、邪魔者の筈のオヤヂには、邪魔にされている雰囲気は微塵も感じられず、気のいい家族と一緒に囲む食卓は、頗る居心地のよい空間だった。勿論、随分とオヤヂを気遣ってもてなしてくれているのだろうが、凄く自然に、恰も家族の一員のような気になりながら、団欒に加えて戴くことができた。店の夫婦は適齢期の娘たちを早く嫁に出したいようなことを言ってはいるが、この家族愛に裏打ちされた居心地の良さを目の当りにすると、夫婦の言葉は本心ではないだろうと思えてしまう。また娘たちも、少なくとも急いで嫁ぐ気は毛頭ないだろう。ホント、急ぐこたぁないよ、と言いたくなる素敵な家族だ。

思い起こせば、寿司忠の暖簾を初めて潜ってから、もうすぐ丁度1年だ。年の瀬に偶然入った店は、すぐに気に入った。始めのうちは自分の素性を明かさずに何度か店に通ったが、その後素性を明かした後にも、店の夫婦の態度が以前と変わらないところも好きだ。最初から、互いに飾らず素直に接し合う事のできていた証だろう。飲食店の主と客との関係を超えた付き合い迄始めることになろうとは、ちょっと昔のオヤヂには考えられなかったことだが、知らないうちに、古き良き時代の日本人に自分が変態しつつある、ということだろうか?

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