ニッポン人てば、なんでニヤツクの?

以前から、所謂報道番組(「ニュース」を伝える番組)系をTVで見ていると、気になって仕方がないことがある。それは、日本人(それも特に民間人)がインタビューを受けた際に、殆どの人が、応え(話し)ながらニヤツイていることだ。

どこかの町で祭りが始まっただとか、娯楽映画の新作が公開されたとか、楽しい出来事の取材風景であれば、インタビューを受けた人々がニコニコしているのは、寧ろ当然だ。しかし、例えば原油価格高騰の煽りを受けて、食料品が全般に値上がり傾向である近頃、スーパーマーケットでインタビューを受けた主婦が、「食費が嵩んで困るワ」という趣旨の話を、ニヤニヤしながら元気よく話すのはどうか? オヤヂの感覚では、困っている場合は、眉間に皺がよるとか、節目がちになるなどして、いわば沈んだ表情で重い口を開いて言葉少なに語る、というのが普通だろうし、本当に切羽詰っているならば、涙ながらに切々と困窮度合いを訴える、というイメージだ。実際、欧米の民間人がインタビューを受けている映像では、無意味にニヤツイテいる人は稀有であり、インタビューを受けると、話の内容がどうであれニヤツいてしまうのは、日本人に特有な態度だと言い得ると思う。

これは何故か?恐らくそれは、学校教育の場で、人前で自分の意見をきちんと述べる訓練を、しっかりと受けていないことが主たる原因ではないかと、オヤヂは推察する。日本の教育形態は記憶力重視であるのに対して、欧米のそれは思考力重視だというのは、有名である。どこかに書いてあることを丸暗記しさえすれば、試験で良好な成績を取れる、ということなら、学徒は皆、覚えることのみに一所懸命になるだろう。そして、どうせどこかに書いてあることしか頭になく、自分で考える習慣を持たなければ、自分の意見を言える筈はないし、聞く方だって書物に書いてあることばかりを改めて言って貰う必要性は薄いことが多いだろう。さすれば、学徒が人前(同級生)で意見をきちんと述べる、という機会は激減するだろう。とかく日本社会全体には、議論を好む性格の人を、あいつは理屈っぽいなどと疎む傾向があるのも、学徒に悪い影響を及ぼしているのかもしれない。そして、物事をちゃんと考えたことが無かったり、人前できちんと話す機会が少なかったりすれば、街頭でいきなりマイクロフォンを突きつけられた際には、動揺し、照れてしまって、深刻な内容の話をする必要があるにも拘らず、ニヤツイてしまうのではなかろうか?

欧米では、義務教育の期間中(勿論その後もだが)常に、大いに自分で考え抜いて、人前でその考え/意見をハッキリと述べ、人を納得させたり、時には人を説得するような訓練を、様々な局面で行っているようだ。「弁論部」の類の課外活動も盛んなようだし、授業や課外活動で培われた発言能力は、社会に出てからのプレゼンテイションの場で大いに役立っていることだろう。欧米の政治家には個性的で目立った人が多いのは、プレゼンテイション能力に長けているのが一番の理由だと、オヤヂは思う。その点、小泉純一郎氏は、かなり欧米型の政治家だからこそ、我が国に於いては非常に特異な存在として脚光を浴びたし、最終的には大きな成功を収めたと言えよう。

また、判り易く説明する、という観点からすると、具体的な数字を的確に挙げて明瞭度を高める、というようなことも、日本人は下手だ。例えば、原油価格や穀物価格高騰の影響で、ニワトリの餌代が嵩み、鶏卵の値上がりが必至だという報道の際に、インタビューを受けた鶏卵生産業者の一人は、例によってニヤニヤしながら、「以前に比べて毎月百万円の支出増となってしまって大変だ。」と話していた。百万円というと、絶対的な金額として安くはないし、とくにオヤヂのような貧乏人には大金だ。鶏卵業者は具体的な金額を挙げて巨額の損失だと訴えている積りなのも充分理解できる。だが、もしもその鶏卵業者に、月々1億円の収入があったとしたらどうだろう?百万円は1億円の1パーセントに過ぎない。収入の僅か1パーセントの支出が増えたからといって、文句を言うのは筋違いだろう。しかし、もしも収入が月々1千万円だったら、話は大きく違ってくるし、例えばそれまでの餌代が50万円/月だったのに、今では百万円増の150万円/月になったのだとしたら、支出が3倍にも膨れ上がったことになり、大問題であることは間違いなくなる。ここでのオヤヂの論点は、単に絶対金額を提示するのではなく、比較基準を設定した上でそれに対する相対値を提示しない限り、真の具体性を欠くことがある、ということだ。TVに映った鶏卵業者に対して、「笑いが止まらないほど儲かっているくせに、ケチ臭い親爺だ。」といった具合に、オヤヂが反感を禁じ得なかったのは言うまでもない。

おちゃらけた、(けれども真剣な?)おばか芸能人が、世間ではもて囃されているようだ。そういうおばかさん達の面白さに気付き、計算ずくでおばかさんたちを視聴者に見せ続けて視聴率を稼いでいる、強かで狡賢い放送業界人達はしかし、もしかするとおばかさんに依存した業界体質に慣れ切って、真の賢さを失いつつあるのではなかろうかと、疑いたくなってしまう。或いは、(おばかばかりを見せられて喜ぶ)民間人を小莫迦にする余り、民間人とおばか芸能人を混同していやしないだろうか?民間人までもを「おばか」に見えるように映す必要は、皆無だ。

折角「現場からの映像や音声」を報道するのなら、雰囲気や臨場感をきちんと伝えるべきだ。明るい話題は明るく、真面目な話題は真面目に、が原則だろうし、切実な内容の話をしている時に、万一話し手が(無意識に)ニヤケてしまっていたり、具体性を欠く話をし始めてしまった場合は、真剣な表情で明確な内容の話をするようにと、映像の作り手側が指導をするべきだ。オヤヂは、話し手の話す内容までも(報道側の望む形に)誘導しろとか、演技をさせろ等と言っているのではない。単に、真剣な内容は真剣にハッキリと語らせろ、と言っているだけだ。リアリズムを追求するなら、リアリティを賢く演出することは、必要不可欠だとオヤヂは信ずる。賢い演出は、「やらせ」とは全く別の次元の話な筈だ。 😎

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