人々(患者)は病院(や医師)に何を求めるのか?

インターネット上で閲覧可能なあるコラムに、理不尽な要求をしたり、常識外れの身勝手な行動を取る患者が、3年前(2005年)頃から増え始めたことが、現代日本社会の問題点の1つとして取り上げられていた。医療事故のニュースが相次ぎ、医療に対する信頼が崩れ去ると共に、マスメディアでは患者の「権利」が強く擁護されて、医者と患者の立場が逆転した(「お医者さま」と「患者」、から、「医者」と「患者さま」へと相互の呼び方が変化した)のもこの頃だ。

最近、医療に関する様々な問題点の報道が益々増えたように感ずる。そして、そういった報道の殆どは、恰も問題点が医療現場(医療行為の施行側とそれを取り巻く医療行政環境)にのみ内包されているかの如き論調だと、オヤヂは思っている。けれども果たして、問題は本当に主として医療現場にあるのだろうか?確かに、特定の地域にのみ大病院と患者が集中し、多くの地域では医師不足が叫ばれるようになって久しい。救急患者がなかなか病院に受け入れて貰えず、結果として容態が悪化したり、死に至ったりしたという報道も後を絶たない。そういったことの原因の一端は、医療環境の不備にあるのかも知れない。大学の「医局」制度の下、教授が人事権を一手に掌握することで、医局が人材派遣会社のような役割を果たし、大小様々な病院に医師が派遣/配置されて、それなりに継続安定して機能する医療現場があったものを、厚生労働省による制度改革で医師の卒後初期研修が義務化され、毎年安定した人数の新入医局員を見込めなくなった医局制度が崩壊し、”非研修病院”への医師派遣が打ち切られることとなり、多くの医療現場が正常に機能しなくなってしまった、という現実がある。医師不足に悩む病院としては、救急患者を受け入れる余裕が無いことも多いかもしれない。そういったことは、患者側の立場からすれば、必要な時に必要な治療が受けられない、という大きな欠陥のある環境なのだから、医療現場側の問題点として映るだろう。

だが、”医師不足”や”適切な治療を受けられない”ことには、本当に患者側の責任(問題)は無いのか?例えば、社会医学/公衆衛生系の様々な職種の人々の重要な活動テーマの1つに、疾病予防がある。成人病と生活習慣病が類義語であることからも明らかなように、普段の生活の中で、自らの健康に配慮することによって、予防できる疾病は少なくない。また、医療経済的な視点からすれば、疾病の治療よりも予防の方が余程安上がりである。”患者”になり得る立場として、自らの健康管理に責任を持ち、なるべく多くの病気(や怪我)を予防することで、本当に患者になることを未然に防ぎ、治療を受ける必要性を減らすことができれば、それにより医師の”不足”も改善され、相対的に医師数に余裕が出れば、本当に必要な人の受療機会が奪われることも減るだろう。無責任に自分の健康維持管理を放棄し、病気になることで気軽に医療機関を頼ることで治療を受ける「権利」を主張する前に、健康維持に努める「義務」を果たすべきだ。

また、医療機関も「組織」であって、一般の会社や店などと同様、様々な役割分担の人々の労働の集積で成り立っているものである。医師、看護師、技師、事務職員、警備員、清掃員などは、皆人間であって、誰1人として24時間365日働き続ける訳には行かない。正常に機能し続ける組織を維持するためには、組織の構成員が適度な休憩や睡眠を取ることは必須である。組織が24時間フル稼働し続けられるように、構成員をグループ分けして、グループ毎の勤務時刻をずらすことで、交替勤務(シフト)制を敷くことは、物理的な問題(主として人員数確保と経済と)で非常に困難なため、通常は夜間・休日診療は行わないか、”救急当直体制”として限られた人員と機能での診療体制を取ることが多い。これは即ち、患者として適切で充分な治療を受ける権利を主張するのなら、真の救急でない限りは、日中の”診療時間帯”に医療機関を受診する「義務」が自動的に生ずることを意味している。昼間は病院外来が混んでいるから、とか、増してや昼間は自分の仕事が忙しいから、とかいった理由で、”すぐに診て貰える”夜間の救急外来を受診し、その疾患の治療は専門外の医師が当直していたからといって、文句を言うことが許される筈はない。

更には、人間である医師が、仕事としての医療行為、を行う以上、完璧であることはあり得ない。どんな職業(の絡む事象)にも、人為的過誤(human error)は必ず起き得る、という認識があるからこそ、危機管理という概念が確立し、人為的過誤に対する種々の具体的な対策が取られている訳だ。過誤の起こる頻度を極力減らし、過誤の程度をなるべく軽くするため、見識を広め技術を高めるべく日々精進を怠らないことは医師の義務だが、過誤に至らなくとも、確定診断に至り難い症例や、治療困難な疾患・外傷、はたまた不治の病だってあり得る。とある医師や医療施設が、持てる能力(知識・技能・設備など)の限界までを使って最善を尽くした結果ならば、患者はそれを素直に受け入れる義務を負うとオヤヂは思う。病気や怪我は必ず治るとは限らないし、瀕死の状態でも病院で加療されれば絶対に死なないなどということはあり得ない。医師には治療の義務があるし、医師は病気や怪我の治癒を目指してもいるが、全知全能の神ではないので、当然ながら全てを治癒させる能力はないし、その義務も負わない。重篤な危機に瀕した急患の治療を迫られた際に、過度の期待を掛けられる事の重責に耐えかね、また患者を危機から救えなかった際の誹りを受けることを恐れて、怖気付き、診療を他の医師の手に委ねようと考える(=救急患者に他院を受診して貰う)医師が居たとして、その医師は診療義務を果たさない不届き者と責められるべきだろうか?治療と治癒が同義のように誤解され、治癒させられないのは過誤だという間違った認識で、”直る権利”を振りかざし、十把一絡で闇雲に医師を非難するのが当たり前のような風潮を作り上げた、患者(や報道機関)の責任はないのか?

そもそも、あるサービス(有形の商品/無形の行為)に着目した場合、サービスを授ける側がそれを職業としている際には、サービスを受ける側は相応の対価を払うのが普通である。医師も、診療行為をした場合、患者から診療報酬を受け取る。これにより、患者は「自分は金を払っている客なのだから、医者からサービスをして貰って当たり前だ。」という気持ちになり易いらしい。しかし、診療報酬は、サービスに対して本当に妥当な(等価な)金額なのだろうか?保険制度に基づいて診療を行う限り、診療報酬は全て、予め決められた額になっている。ある患者を、一流(と言われている)大学を卒業し、一流(と言われている)病院に長年勤務していて、その疾患の権威とされているような医者が診ようが、その対極にあるような新米の医者が悪評高き病院で診ようが、得られる診療報酬は基本的に一緒だ。普通の”サービス”に鑑みれば、これ程不自然なことは無いとオヤヂは思うのだ。例えば、旅行するときのことを考えてみよう。2つの都市間を移動する際には、利用する交通機関に依って、移動所要時間、利便性、快適性などが異なっており、全てに優れた乗り物は、利用料金も高額に設定されているのが普通だ。しかも、同じ乗り物でも、客室や座席の豪華さや、得られる有形・無形のサービスの充実度に応じて料金が異なる。人々は、客として自分の望むサービスを受けるのに相応しい金額を払い、サービスを売る側として設備投資や努力(労働)に相応しい報酬を受け取ることで、其々が満足する仕組みだ。診療報酬制度は、必ずしもそうなっていないことは、明らかだ。

自分の労働に対して(その正当な評価の証の1つとして)高額な報酬が得られるのなら、出来る限り頑張ろう、と自然に思うのは人の常だろう。逆に、報酬が(労働の質や量が不当な評価を受けた結果として)低額の場合、勤労意欲が低下するのも仕方のないことだろう。もしも患者が心底客として扱われることを望み、医療従事者はサービス業に就いているという自覚に徹すべき、ということなら、国民皆保険制度に基づいた診療報酬の規制枠を撤廃し、自由競争の原理を導入して、より良いサービス(質の高い医療)には(無制限の)高額報酬が支払われるようにすべきだ。払わない/払えない人はそれなりに、払う人/払える人もそれなりに、の診療(サービス)が受けられるのは、至極当然のことだ。権利と義務について、もっと突き詰めた議論がなされるべきではなかろうか。

救急患者が複数の病院で受け入れを断られ、盥回しにされた挙句に亡くなった、という場合も、例えば1件目の病院で患者が診療を受けていれば死を免れ得た、ということが前提のように聞こえるが、果たして本当に診療を受けられなかったから患者は命を落としたのだろうか?先述のように、病院(医者)は完璧ではない。致死的な疾患でも、発症直後ならば適切な初期治療とそれに続く本格治療を行うことで、救命し得る場合も確かにある。しかし、それには専門的な知識や技能(のある医師)と設備(がある病院)が必要で、その意味では病院を選ぶ必要が生まれるし、逆に言えば必要条件を備えない病院側が、救急患者を選ぶ結果(=救急患者受け入れを断る)になるのは必然ではないのか?それとも、(能力の限界が判っていて)どうせ救命し得ない可能性が限りなく高くても、倫理的(?)な感情を最重要視して、要請があったら急患の診療は絶対に断らない方が良いのか?

日用品を買う時に選ぶ店を考えると、必要な議論のヒントになるかもしれない。出先や深夜にちょっとした小物を買う、というような場合には、近所にある24時間営業のコンビニエンス・ストアで用が足りることが多いだろう。時間のある時に、必要なものを合理的な価格で纏め買いする際にはスーパーマーケットを利用する人が多いだろう。希少価値の高いものや豪華なものを購入する際には、百貨店や専門店を訪れるのが普通だろう。料理をする際に、うっかり調味料を切らしていたからコンビニに走る人はいるだろうが、フォアグラやトリュフがコンビニに置かれていないといって嘆く人はおるまい。逆に、エルメスのブティックに行って、軍手を探すのも愚かだろう。夜間や休日も開いているので緊急の場合には便利な救急外来(診療所・医院・病院)、馴染みの医師の居る掛かりつけの一般外来(診療所・医院・病院)、(特異/重篤な疾病で)紹介受診をする専門外来(大学病院/大総合病院)、というような区別は絶対に必要だ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です